My Favorite, Addict and Rhetoric Lovers Only

fahrenheitizeのブログ。

書籍を出すまで俺が考えていたこと、役割を終えたブログの今後について。

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 このブログは2012年に書籍化を目指して立ち上げた。

 それなりのステータスがあって、それなりの給料がもらえる会社。自分で望んだ場所だったのに、それがあと30年以上続くと想像したとき、途方もなく退屈な時間の連鎖のように感じられたのだった。<予想できる楽しさ>がくり返されることが想像できた。

 ブログをバズらせて、Web媒体で連載を持って、書籍化の依頼をもらう。これが自分の描いたシンプルなシナリオだった。<予想できない楽しさ>を獲得したいという動機だった。
 自分がサボってしまったこともあって、想定よりは時間がかかってしまったけれど、Web媒体・出版社のご好意があって、幸運にも描いたシナリオ通りに実現することができた。


 あの頃、考えていたのは「たまにしか更新されないけど、更新されたときにはめちゃくちゃ面白い文章が読める」と思ってもらえることだった。
 無料で、書籍並みに濃く、重く、深い考察がされた内容を披露することに、充実感を覚えていた。これは当時、自分がはてなブックマークのホットエントリーを愛読していた影響が強い。特にコンビニ店長と安全ちゃんは大好きだった。(ふたりともカムバックしてください……)

「良質の考察系の文章がウケる」と「はてなのバズが、インターネットのバズ」という時代がたしかに存在して、その両輪がハマっていた時代が自分がいちばんインターネットを愛していた時だったように思う。ホットエントリーを夢中で読みあさったものだった。
 自分もひとりの読者としてそういったブログが好きだったし、そういう書き手になりたいと考えていた。何をロールモデルとするかは、その人の行動指針を規定してしまうものだ。

 ここ2年ほど「Webがつまらない」と公言しているのだけど、インターネットでバズっているもの=面白いもの、だと思えなくなってしまったことが大きいように思う。これはいまのバズを否定するのではなく、単純に個人の好みの問題である。面白い人に会って、濃密な会話をすることが刺激的というきわめてシンプルな結論に至ったのが、いまの俺の感覚だ。


 ちょっとだけ話を脇道にそらせる。最近は書籍を出したい人にコンサルをする機会も出てきたのだけど、選ぶトピック、すなわち「何を書ける人として認識されたいか?」という命題は面白い。
 概して人は自分が偏執狂になっている対象を認識できていない。本人にとって当たり前すぎることだからだ。また、それを過小評価していることが多い。

 よって、コンサルをするときには「何が好きか?」「何をしているときが楽しいか?」をまわりくどい形で聞く。直接的に聞いても、本人の顕在意識にすでにある対象しか拾えないからだ。俺から「頭おかしいっすねw」という言葉が出たときが、その人にとってのトピックが見つかる瞬間である。
 たとえば俺も「恋愛」を<ひとまずのトピック>として置くまでは、自分に書けると思っていなかった。あまり恋愛に悩んだことがなく、経験人数でいっても俺よりも多い人は身近にいたからだ。
 が、書き方さえブレイクスルーしてみれば、書けた。初めて書いた記事が初めてのバズ記事である。

http://www.fahrenheitize.com/entry/20120408/1333888417www.fahrenheitize.com

 それはやっぱり平均的な人よりも多くの時間を費やして、考え、取り組んできたことだったからだ。いかに解像度を上げて、ブレイクダウンして書けるかだけの問題にすぎない。書き方にはそれなりのテクニックが必要になるのは事実なのだけれど。


 話題を戻すと、このブログを真剣に更新しなくなって久しい。それはWeb連載を始めた頃と重なるのだけど、例えるならば、出張所がホームになってしまって、本拠地が空き家になってしまっているような状態だった。あとは思いつきで書いた文章と、外部媒体への寄稿のお知らせと、イベントの告知だけがあるような有様。
 恋愛の文章が読みたいならアムで読んでねー、もっとライトな内容はココロニプロロ、お仕事ならサイボウズ式に行ってくださいねーみたいなノリになっていった。


 自分でも最近になってわかったのだけど(アホである)、ブログを更新しようと思えなかったのは、イニシャルの動機が失せていたからだった。もはや自分にバズは必要なくなっていたし、書籍化につながる行動ではなくなっていたからだ。毎週のように外部媒体で神経を使って書いて、さらに無料で書くという行為にかなり辟易としていた。


 良くも悪くも、人は満たされていないときに大きな力を発揮する。渇望が前に進む動機を生むのだ。自分には「俺の文章を読んでくれ!」という切実な思いが開設当初にはあったのだ。
 Web連載を持てるようになった頃にその動機は消滅し、書籍という集大成をもって、恋愛というトピックを語ることも完結した。そもそも俺の恋愛観はこの数年、アップデートがない。あらゆる人に言えることだが、更新がない対象とは死んでいることに等しい。老化のはじまりは思考の更新が途絶えたときである。


 さて、開設した時の動機が消滅してしまった当ブログだけど、最近考えているのは「俺の考え方」を好きに書いていこうということである。それが心地いい人を集めたいという思いになる。かつて、男性を対象にしていたものを、女性を対象としたように、ブログの語り口そのものを変えていく。

 書籍に書いたことだけれど、俺は人それぞれ好きにやればいいと思っている。恋愛にかぎらず「あなたが楽しいと思うことをやれ(それがいちばん難しいことだよ)」という信念を持っている。

 押しつけるのも、押しつけられるのも、芸風のわりにはあまり好きじゃないのだ。

 おそらく何を書いても自分の考え方というのは、必然的に文章に出てしまうだろう。それはオススメの書籍・漫画・音楽を紹介しても、ドローンを飛ばしたときの気持ちを語っても、他人と会っておしゃべりして気づいたことでも、なんであってもだ。それが誰かの強迫観念をリリースするきっかけになれば、それでいいんじゃないかと思っている。


 そして、次のステージで胸に刻みたいのは「楽しいものに、楽しい人は引き寄せられる」ということだ。恋愛というトピックでは少なからず説教くさいことを書かなくてはいけなかったけれど、俺はポジティブなことが好きなのである。あまりネガティブなことを引き寄せるのは本意ではない。俺がいまも読んでいるブログは書き手が楽しんでいることが書かれている、それが見えるブログである。そういったブログにしていきたい。

「好き」「楽しい」という気持ちが集まった文章の集積の場としてのブログ、それがこれからやっていきたいことである。これまでは「ある程度まとまった考察」を書かなくてはいけない強迫観念を持ちすぎていたように思う。Webというのは断片が許容される場所であり、そのストックが意味をなす場所である。その特性を活かしていこうと思う。

 いま、俺は幸運にも「生きたいように生きる」ことが出来ている。そして、それは誰にでも出来ることだと俺は思っている。本人が、素直な気持ちで生きていれば。そのヒントになるようなことを日々、書いていけたらと思うのだ。他人に対して、淡々と、マイルドな刺激を与えるような場所にしていきたいといまは思っている。