My Favorite, Addict and Rhetoric Lovers Only

fahrenheitizeのブログ。

文章を書くことが好きになったきっかけのこと

変な時間に寝てしまったせいで今頃目がさめてしまって孤独なのでブログを書いてみる。あまりこういった更新はこのブログになってからしてこなかったのだけど、深夜ラジオのノリで喋ってみよう。ただいま、じこくは、3時30分をまわりました。

俺は眠れぬ夜のテンションで書くわけだけど、これを読む人は金曜日の朝に通勤で読むわけで、そのギャップに可笑しさを感じながらこの時間帯の気持ちの断面を。ぼくはいま孤独なのです。


自分は文章を書くこと、それ自体が好きで、まぁ本気で書いた文章についてはそれなりに「読むに耐える文章」であることを自負にこんなブログをやってるわけなんだけど、その気持ちが芽生えたときのことをさっき思い出した。中学生の頃だ。


これを読んでるみんなも読書感想文やら随筆的なものを授業で書かされた記憶があると思う。僕はそれがすごくキライだった。嫌いというよりは苦手意識があった。俺自身は面白いと思って書いているのに、まわりにホメられたことがなかった。よく言われたのは「何が言いたいのかわからない」。いま思い出すと書きながら思ったことをそのままシャーペンで書いて、しかもその思いついたことがそのときハマっていた小説とか興味のことにいきなり話が飛ぶのだからそりゃ学校の提出物としてはいかんかったな、といまになっては分かる。

中学3年のときだったか、「何かを書け」と国語の授業で言われて、ふと大好きだった読書について書いてみた。書いた内容はきっちり思い出せないんだけど、似たテーマの本を何冊も読むと本質が掴める的な「言いたいこと」を書いた内容で、いっちょまえに司馬遼太郎が本を書くときには1トントラック分くらい買い込んで読んでたとか「大量の本から出てきた雫のようなものを文字にする」みたいなセリフをエピソードとして引用した覚えがある。

自分がなんとなく考えていたことを文章にしたもので、自分でも書けたという自覚すらなかったのだけど、親とか教師の評判はやたらよく、そのまま市町村単位の文集冊子に載った。いま思うとすごく小さいことなのだけど、その小さいことが当時の自分の苦手意識をわりと大きく壊してくれたらしく、文章に対しての捉え方が変わっていったのでした。それを境に「書ける」であったり「読ませるに耐える文章」というものがどういうことか?ということに意識が向いていったような気がします。高校時代、なんか司書のおねーさんがすごく気に入ってくれて図書新聞にコラム書いてくれ的なことを言われて書いたりもした恥ずかしい思い出もある。ちなみに司書さんと肉体関係はありませんでした。


人が何かを好きになることのきっかけは色々あると思う。でも、ひとつの大きなパターンとして「俺、けっこう出来るんじゃね?」という小さな自信をどこかで得られる機会があったかどうかなんじゃないかと思う。それを少しずつ積み重ねていく。結果が出ることを問わずに自分で決めたことに打ち込める人はすごく稀で、やはりそういった「手応え」のようなものをどこかで得られたものに人はハマっていくんじゃないでしょうか。「女の子」という意味でもそんなきっかけが俺にはありました。

他人から見て些細な出来事のようなものでも、その手応えのようなものをしっかりと味わって、自分の糧にしていく。そして努力を続けていく。才能とはそうやって開花していくものなんじゃないかなって思う。俺自身としては文章を書くことに対して、もっともっと才能がほしいと思うんだけど、今後も書き続けていくことでしかそれは得られないものなんだろうなって思う。


俺はブログが大好きなんだけど、それは色んなちがったかたちの「才能のある人」が自分なりに文章を書いてるからなんだと思う。そんなものが無料で、おまけに自分の好きなときに読めて、次々と新しいブログが出てきて。最高でしょう。俺自身もブログ書いてる人としてこれからもやっていきたいし、面白いブログを書いてる人を応援していきたいなぁって思う。