桐谷ヨウ blog

桐谷ヨウのメインブログ。恋愛・コミュニケーション・海外・文章を書くことについて。


俺はまだまだ人生を楽しめるんじゃないかと思って生きている。

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最近、自分の「ライフデザイン」が狙いどおりに成功している。

一面的には週4でコンサル業をやり、週3は気兼ねなく興味のあることに時間を費やす生活である。もっと広い意味では社会性を保ちつつ、自分の興味を持ったことで遊び、関わりたい人と存分に関われているということ。

興味のあること、と書いたのはいわゆる個人事業なわけだけど、安直な金稼ぎに走る必要はもうない。純粋に自分が「面白い」とか「この先に何かあるかも」と思う自分への投資だけに絞って活動できているわけだ。それはすごく大きい。


そうそう。会社員を辞めてフリーランスになりたい人に伝えておきたいことは、「好きなことでも意外に食えるよ」ということ。会社を辞めるってすごく勇気が必要だけど、意外にやっていけるものなんです。ちゃんと働けば。

でもね、同時に「それなりに稼ぐ」のは工夫が必要だし、どうしても労働量がつきまとったりもする。

付き合いたくない人と付き合わざるを得なかったりもする。こいつの仕事ないなーと思っても、それを断れる立場の自分か?という不自由さもあったりする。そこまで含めて、フリーランスで生きたいか?ということを考慮する必要はあるよーと思います。(俺はなるべく働きたくないし、嫌なものは嫌な人間でした)


さて、何を持って自分のライフデザインが成功しているか?なのだけど、俺の場合は「自分の人生を楽しめる余地を残してしまってないか?」というのが基準になっている。まだ残っているならそれは勿体無いことをしているわけだ。

そこに対して強迫観念的に「楽しめる余地がある限りは、俺はまだ人生を楽しめていない」と思っているわけではないのだけれど、充足しながらも「まだまだイケるんじゃね?」という目線を大事にしたい…というテンション。


ちょっと話がそれるけど俺は同窓会的なものがキライである。大体において「あの頃は楽しかった」というテンションで集まって、昔話に終始するからだ。「いやいや、あの頃から変化したお前のオイシイ話を聞きたいんだよ!」って思ってしまう。

学生時代は楽しかったし、社会人になってからも楽しかった。二十代前半の楽しみ方と、後半では違っていた。年齢のそれぞれで自分の人生の楽しみ方は変化していて、これからもそれが訪れるのが楽しみでしょうがない。そして、今この瞬間もそうだ。

移りゆく今のその時々を楽しめる奴は、10年後だって楽しめる。そういう信念が俺にはある。


数年前に「なんてこの人は人生を楽しんでいるんだ!」と衝撃を受けた人がいる。貪るように彼の書籍を読んだり、動画を見漁ったりした。彼はなぜそんなことが素で出来てしまうのか?と恋のように気持ちがふくらんだ。あまりにも話題に挙げるので、彼女が勝手に「アニキ」という愛称を彼につけたくらいである。

幸運にも彼と仕事で接する機会に恵まれ、彼と定期的に会うことができる機会に恵まれるようになった。同時に、彼に「人生をもっと楽しめるぞ」というメッセージを間接的にもらうことで、自分の人生を楽しませる余地もさらに広げてもらっている。自分が無意識に持ってしまっていた制約を破れ!と言い続けてくれているような気がしている。(たぶん向こうにそんな意図はない)


何が言いたいか? 俺が「自分自身」と「自分が関わる人」に伝えたいことも、結局はそれなのである。

自分の人生は、自分のまなざしをどこに向けるかで決まってしまう。つまらないものをまなざしてしまう人の人生はつまらなくなる。楽しいものをまなざそうとする人の人生は楽しくなる。たったそれだけのこと。

そしてそれを人生で徹底することが何よりも、難しい。

人間なんだからウジウジしてしまうことや、悩んでしまうことだって正直ある。ハッピーでいたくても、それを妨害する日々の些事はつきまとう。不愉快にさせられる人と出会ってしまう。それは生きているかぎり仕方がないこと。むしろそれを感じないのはポジティブバカの現実逃避だと思ってしまう。


ただ、そこで悩むことと考えることを一緒にしない。ウジウジすることに甘えない。つまらないものをまなざしている自分をつまらないと叱咤できるか。そういった一時的なトンネルをちゃんと抜け出した先に、自分を楽しませる自分がイメージできているか。

そういうことが人生において大事なんだと感じる。

「足りていない」ではなく、「幸せだけど、まだ楽しめるんじゃないだろうか」。そういう思いで生きているときは、自分自身が上手くいってるときだと経験上感じる。それが俺にとっての「前向き」という言葉の本当の意味だ。

そして「楽しい」とは「ラクをする」ことは一緒ではない。

それなりにしんどいこともたくさんある。苦労を買ってする必要はないけれど、何かをしなければ自分がほしいものは手に入らない。

自分が欲しいものが詰まっている部屋へのドアをノックし続けた先に、ご褒美は待っている。ドアが開くまでは苦労してノックし続ける必要だって、時にはある。

そんなことを噛み締めながら、近頃を過ごしている。