My Favorite, Addict and Rhetoric Lovers Only

fahrenheitizeのブログ。

自分の限界を手前に引いてしまうということ。

自分で言うのもなんだけど、僕はマジメな人間である。

きちんとやるべきときにやってきたから、
いまの自分があると思うし、
何か新しいことに出会ったときに
マジメに「向き合う」ことをすごく大事にしている。

よって、他人を見ていて軽蔑してしまうのは
「向き合っていない姿」を見せられたときである。

それはその場にいる人たちに対して失礼ということだったり、
真剣に物事に取り組んでいないことだったり、
あるいは自分の内面を掘っていない…
対象を自分自身に響かせていない、ということだったりする。


比喩的な言い方になるけれど、
「正座するような心持ち」で物事に向き合っているか?
ということだと思う。

自然と背筋を伸ばして、
不遜な態度を取らずに、
まっすぐに対象を見つめる気持ちを持っているか、
それに尽きる。

ということはちゃんとやっていた
つもりなんだけど、
最近では別の視点が大事な気がしてきた。

それは「強度」である。


運動で言われる強度とは、負荷という意味合いに近い。

全力ダッシュは強度が高い運動。
お散歩は強度が低い運動である。
心拍数がバックバクになるようなものが強度のある運動ということだ。

で、運動に関しては強度が高いものが
健康に良いとは限らないわけだが、
「物事に向き合う姿」にも強度が存在している。

どれくらい「出し切っているか?」という意味合いだ。

先日、立て続けにそれを感じさせられるシーンがあった。


まずは「最大酸素摂取量(VO2MAX)」という
体力の客観的な指標を検査しに行ったことだ。
ふつーは運動に意識が高い人たちが受ける検査である。

ハツカネズミのように自転車エルゴメーターを
自分の限界まで漕いで行く。
間接法という一般人が使うようなテストなので
ナメていたんだけど、
終わってみたら頭はクラクラ。
膝はガクガクに笑うまで追い込まれたわけです。

で、終わってからふと気付いたのは
「いまでも俺こんだけやれるじゃん」と、
「最後にここまで自分の身体と気持ちを追い込んだのはいつぶりだ?」
ということだったわけです。

これまで限界のだいぶ手前に
自分の線を引いてやってきていたのです。


同日、そのあとには今年から凝っている
ボディーワークに行ってきたんですね。

「余力を残さない」「全力を出せ」「まわりを気にしない」

そういう発破をかけられて「今日は厄日か?!」と
思うくらい絞り切られたわけです。

だけど、終わったあとの感覚が清々しく、
なんというかひたむきでガムシャラだった頃の
自分を思い出して、懐かしかったんです。
そして、なにより気持ちが良かった。

師、曰く「普段その人がやらないことをやっているときが、セクシーな姿で、ソウルを感じる」。


別日には大下千恵さんとのワークショップで、
他人のそういう姿を見て心を動かされる機会があった。

面識がないとはいえ、無様な姿を他人に見せるのは覚悟がいること。
だけどそれは双方の心を揺り動かす。
涙を流しながら、閉じ込めていた感情を吐き出してくれた人もいた。

なぜか人は圧縮冷凍していた感情にアクセスしたとき、
悲しくなくても涙が流してしまうものらしい。


今日書いたことは、いろいろな示唆を自分にもたらしている。

まだまだお前はやれるんじゃないのか?
ってことだったり、

ふだんやっていないことをやるときに
人は輝く瞬間があるということだったり、

よく言われる身体から心にアクセスする
ということだったり、

思い込みに気づくことで
人は解放されるということだったり、だ。


そして、自分は真剣にやっているつもりで、
本当にそれは真剣だったのか?

そういったことを考え直させられる機会たちだった。


物事に取り組む角度が必ずしも真っ直ぐでなくてもいい。
あるいはいつも絞り出すような強度である必要もないと思う。

だけど、それらが可変であることを実感すること。
変えてみたときに、自分のなかで感じるものが変わるということ。

そういった手ざわりを大事にしていくべきなんじゃないだろうか。