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桐谷ヨウ@blog

桐谷ヨウのメインブログ。恋愛・コミュニケーション・海外・文章を書くことについて。


僕らは皆、特別扱いとしての「まなざし」を欲してしまう。

コラム・エッセイ

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 今日はまなざし、まなざされることについて書いてみようと思う。

いい意味での特別扱い、「まなざし」というのも最近考えていることのひとつなので、それも書いてみようと思います。

子どもの扱いがうまい大人の姿を見て、モテとの相関を考えてた。 - My Favorite, Addict and Rhetoric Lovers Only


 あらゆるシーンでまなざしというのは魔力を孕んでいる。このことに気づいたのは平均化訓練という稽古に出向いたときだった。平均化訓練を説明できるほど俺は鍛錬できていないので、この場ではボディーワークのようなものだと受け取ってもらえればいい。

 俺は二回目の参加、その場には初回の参加者が3名いた。彼らを見ていると、自然と「スジのいい人間」に目がいってしまうのだ。ひとりが体感覚に抜群に優れていて、言われたことをすぐさま再現してやってのける。自然と彼に目が向いてしまうし、もっと言えば他の参加者よりも彼に注目してしまっている自分を発見した。注目されることは必ずしも愛されることと同義ではない。だけど、特定の誰かに注目することは、他の誰かを無視するということと同義であることは、まぎれもない事実だ。

「まなざし」とは注視すること、特別視すること、期待することと言い換えていい。思えば自分は教育機関において、まなざされることが多かった。その場において本質的に必要なことをキャッチアップすることに長けていたからだ。そして、わからないことを素直にわからないと認めて、教える側に執拗に聞くということをためらわない性格だったから。

 同時に、まなざされない側への共感度が育まれてこなかった。多くのシーンでまなざされてきた人間は、まなざされない人間に対する想像力がはたらかないものだ。乱暴に言うのであれば、まなざされないなら、まなざされるようになれ、というメンタリティである。


 まなざしというのは何かを習得する場に限定して、発露する類のものではない。あらゆるコミュニケーションの場において、まなざしの不公平は発生している。贔屓(ひいき)目はまなざしの濃度の差だ。まなざされない側は、その場で無視されている自分を噛み締める。

 教育機関ではまなざされる機会が多かったと書いたが、普段のコミュニケーションにおいては自分に焦点が当たらないことは多々経験しているし、それを無理に自分に向けようとすることもあれば、もはや傍観者としてその場を眺めていることだってある。自分の場合は、それを孤独とは別問題として認識していた。


 最近、「どうやら世の中の多くの人は、寂しい」ということを考えている。そのひとつのヒントにまなざしというのがあるのではないか。

 寂しい人は、優しい人を欲する。そして、多くの場合、「その人にまなざしを向けている(ように見える)人」は優しく映る。僕らは皆、すべての人からモブキャラとして扱われてはやっていけない。誰かから特別な存在だという認知を獲得して、はじめて自分に大きな価値を認められる。(本当のところは他者評価に身を委ねることは正解ではないのだが)

 とにかく「何でもいいからまなざされたい」というのは低レベルだと俺自身は思っているのだけど、そういった思想を持っている人は多くない。そう、一般的には優しくない考え方なのだ。


 ただ、そこを乗り越えている人たちにも課題がある。それは、自分のどこをまなざされたいのか?という視点だ。コミュニケーションが巧みな人は、好かれる振る舞いに長けている。それは自分が想定したまなざされかたに対して向けられるまなざしを獲得することが上手いという意味合いだ。自分が予期しないまなざしを向けてくれる人はそう多くないし、そこで寂しさを覚えている人は多い。こんなもんだろうという諦念の量産と言えるか。

 想定外の角度から打ち込まれる「まなざし」にはふたつの側面がある。発する側が的外れではない、今までになかった気づきを相手に与えること。受け取る側が、これまで盲点としていた部分に対して素直に向き合えること。両者間に信頼関係がないとできないし、本当に難しい。


 少し前から「お悩み相談」を始めたのだけど、こういったことの相似形を痛感していた。

 今回の文脈で言えば、相手が想定している「お悩み相談で向けられるまなざし」に対して心地いい言葉を打ち込むことはあまり意味をなさない。本人が現実の生活でもあまり実感しない、だけど本当は向けられるべき「まなざされかた」を一緒に見つけて、それを求める振る舞いを身につけてもらうためのアドバイスを出したいと自分は考えて実施している。

 それは想像以上に根気がいる作業で、自分のスキルでは時間的な効率化がまだまだできない。4時間以上は平気で使ってしまう。ただ、その場においては積極的に「まなざしを向けよう」ということを考えている。自分が選り好みしてきたような人たちに対しても、とにかく、まなざそう…と。自分はつきあう人を選んできた。まなざしを向けると決めた人にはとことん注視し、注力する。それはまなざしたいと潜在的に思わされた対象に限定されていた。

 お悩み相談においては相手を選べない。始めた時はなんとなくだったけれど、選ばないためにこれをやっていると言えるかもしれない。本人が求めている角度へのまなざし、そしてそこからズラしているけれども、こちらとしてはそれが大事だと信念を持って言える(すごく難しい)角度のまなざしを毎回手探りで探している。


 ここからは所感です。というわけで粛々と進めている対面のお悩み相談なのだけど、個人的な感想としては「タダ乗り」をする人が仕組み上いないというのはけっこう大きい。こちらに相手に対する興味があろうがなかろうが、「仕事」という形態をとっているので、真剣に向き合える。ぶっちゃけた話、これまで知り合った人のなかには興味がわかないけれど、興味を向けられるから適当に接して、幻滅されるというパターンもそれなりにあった。この仕組みにそういった存在はいない。

 興味本位を排除するために「安くない」という値段設定をしているのだけど、やっぱり興味本位がその人の1/3くらいは混じってくるようで、それに対する接し方は、現状まだ考えているところ、かな。

 まぁ、俺の文章を読んでくれている人に「お悩みを聞いてもらうだけ」を求めている人はあまりいなくて、みんなちゃんと真剣に自分に向き合おうとして来てくれるから、そこは嬉しいところです。そして、やはり他人を見つめるということは、自ずと自分と向き合うことなのだと、痛感させられております。


 現在、直接お会いする・ブログでお答えする・オンラインサロンで回答するの3種類でやってます。

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