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桐谷ヨウ@blog

桐谷ヨウのメインブログ。恋愛・コミュニケーション・海外・文章を書くことについて。


子どもの扱いがうまい大人の姿を見て、モテとの相関を考えてた。

コラム・エッセイ 恋愛

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 たまーに参加させてもらうBBQやらピクニックで考えたことです。こういう大人も、子どもも、おねーさんも集まる場があるじゃないですか。

 みんなそれぞれ好き勝手にやりなよーという場は素晴らしい。俺はああいうカオスが好きです。特に子供連れの大人が、日頃の育児から解放されて、楽しんでいる光景はなんかニンマリしてしまう。そんなときに他人の子どもの相手を、「買って出てる人」を見ると振る舞いがちょーー参考になる。

 んで、あの構図は「モテ」の構図に近いな、と思わされるわけです。


 言葉を選ばずに書けば、ガキはうるさいものです。一般的にそーいう場では、おとなしくしてる子がかしこい子、と言われがちな傾向があるけれど、うるさい子というのは「楽しいこと」とか「自分がやりたいこと」に忠実で外交的とも言えます。そして、そういう子にひとたび「イケる」とロックオンされると、一切の遠慮が、ない。

 俺自身、ガキの頃から人見知りがなく、知らないオジさんに相手をしてもらうのが好きだったので、わりと一緒に遊びます。世代を変えた返報性でしょうか。そういや、親にはよく「飴ちゃんもらっても付いて行っちゃダメだよ」と口を酸っぱくして言われてました。


 で、「子供をかまうのが上手い大人たち」を見てて思うのは、このふたつに尽きるんですよ。

① 楽しいかはさておき、相手の世界観に飛び込む。
② 自分が主役じゃなくても、場に貢献する意識がある。


 子どもが楽しいと思うことは、ぶっちゃけ「ふーん」でしかなく、理解不能だったりする。でも、どうやら彼・彼女らには楽しいもんらしい。理解を超えて、"そういうもんだ"という前提に立って、同じ目線で一緒に遊ぶ。言いかえると、相手の世界観を尊重するって行為です。

 恋愛においても、ラポール形成なんて言葉を持ち出さなくても、ディスって始まるコミュニケーションなんてあるはずがない。まずはどデカイ心のキャッチャーミットを構えるスタンスから始まるもんです。相手の球速も球種もわかんねーんだもん。


 たぶん方法はいくつかあって、多用されているのは「自分が子どもに戻る」という手法。相手の感覚に合わせるために、自分のキャラクターを相手に寄せるということです。俺の言葉で言えば、憑依型のコミュニケーション。

 たとえば恋愛で「相手に寄り添う」みたいなことは言われるけど、あれって相手の感覚に自分の感覚を寄せることで、思考なり感情をトレースしてるのが実態だったりする。だからこそ、それが容易なバックグラウンドが近い奴とは(技術を磨いてなくても)お近づきになりやすかったりするのだ。

 逆に言えば、最初のフィルタリングとしても機能する。「こういう奴は関わっても、時間のムダだ」と思うのであれば、意図的に相手の思考や感情をトレース「しない」ことが、自己防衛になる。間接的に距離感と嫌悪感を示せる、重要な技術です。


 そして二つ目。大人が主役であってはいけない、いつだって子供が主役ということをわきまえているか。短時間で"あしらう"ことに長けている人が多くても、そこそこの時間、子供の相手をできる人はこの大原則を守っている。

 だいたいすぐに子どもから離脱する(あしらうだけの)人は、やはり「自分が主役でないコミュニケーション」に耐えられないことが間接的な理由になっている気がする。反面、主役でないことをわきまえている人は辛抱強い。もう「そういうコミュニケーションだ」という覚悟が大前提にあって、子どもが楽しそうにしてくれているのに、喜びを感じられるマインドセットになっているんだろう。

 まぁ、本意はわかんないんだけど、「構わなくてもいい場」において、おまけに特別子どもが好きでもないのに、子どもと遊んでいる大人を見てると、良くも悪くも、自分がその場のコミュニケーションの主役であることへの執着を感じない。だって、本来なら喋りたい人と喋ってればいいんだもの。


 対子どもに対してだけでなく、広く言えば、その集まり自体の、全体最適に貢献する目線を持っているかと言い換えられる。そういうヤツは合コンも強い。全体のなかの「コマとしての自分」という意識を持っているからだ。そのことを意識することで、自分というリソースをどう有用に使うか?という発想が、はじめて生まれる。必ずやらなければいけないことだとは決して思わないけれど、出来るに越したことがないスキルだ。

 ある種のカオスな場…誰かを特別扱いできないような場において、「自分が構ってもらえないとつまんない」と思うタイプの人間は、言ってしまえば厄介者なわけです。特に、場を統制する機能を担っている人間からすると、「お前は子どもか」ってことなんですよね。マジモンの子どもはそれでいいわけですが、大人たるもの、なんでお前の面倒を見なきゃいけねーんだ、と思われても仕方がない一面があるわけです。で、コミュニティからつまはじきにされちゃったりするのも、そういうところから来てたりするわけです。

 今回挙げたふたつは、他者の前提への想像力と、特定空間における身のこなしの柔軟さ、と言えるかもしれない。


 これらに関して、「自己犠牲せよ」とは俺は思っていなくて、むしろ自分に無理のない範囲でやりゃーいいと思うんだけど、「無理のない範囲」を一切、拡張する気がない人はどうなんだろうと思う一面があります。少なくとも、自分に関しては「無理のない範囲を広げて」いきたいと思っています。そしてそういう人が好きです。


 さて、俺の子どもへの向き合い方は、やっぱり女の子へのそれと一緒で、どっぷり向き合って、スパッと突き放す、です。遊ぶときはもう一緒に全力疾走したり、抱きかかえてブンブン振りまわしますが(他人の子だろ)、しばらく遊んで、自分のなかの大人と喋るタイムに入ったら「しばらく休ませて〜」と完全に突き放します。問答無用の「あっちで遊んでおいで」です。

 もうホント、"なつかれる"と"ナメられる"はすげーギリギリのさじ加減だと思うんだよ。どんどんひっきりなしに要求されるようになってくるんだもん。このあたりもある種の異性関係と近しいものがあります。


 そーいや、ある人に「なんでちっさい子って、追いかけっこ(で追いかけられるの)が好きなんだろ?」と聞いたら、「たぶん自分だけに向き合ってくれてる喜びをいちばん感じるんじゃないかな?」と言っていて、なんかすげー納得したのでした。

 いい意味での特別扱い、「まなざし」というのも最近考えていることのひとつなので、それも書いてみようと思います。


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