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桐谷ヨウ@blog

桐谷ヨウのメインブログ。恋愛・コミュニケーション・海外・文章を書くことについて。


他人と会うということは、会ってないあいだの出来事に邂逅するということ

コラム・エッセイ

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先日、茅ヶ崎の変なニイちゃんと飲んだ。彼は僕のことが大好きで、僕も彼のことが大好きだ。友情には年齢差も、バックグラウンドや職業の親近感も、性格の類似点でさえも必要がないことがある。

彼に「インターネットではどんな情報収集をしてるの?」と聞かれてあらためて振り返ると、ぼーっとTwitterやFeedlyは定期的に見ているものの、自分の身になっているものは少ないと感じる。本は読んでるけど、かつてのように膨大な量を読んでるとは言い難い。

結局、「人に会ってるのが一番の情報収集ですかね。今も昔もそうなんでしょうけど。」みたいなことをなんの気なしに答えることになった。


情報収集とは言ったものの、何か実利的な情報を得るために人に会うことは当然ない。会いたいとお互いに思った時に都合が合えば会っているだけなのだけど。

人付き合いとは面白くて、"好き"と"頻繁に会う"は必ずしも相関しない。漠然と会いたいなーと思う気持ちはあれど、気軽に連絡を取ることをためらう自分が確かにいるのだ。他者への敬意とは、敬遠とは似て非なる距離感によって表現される。ベタベタした馴れ合いの関係は居心地が良いけれど、そこに執着する人を見るたびに汚物を見る気分になってしまう。

俺は人間関係において自分の話を聞いてもらいたいという欲求がさほどない。それは彼女に毎日してもらっている。彼女は恋人と同時に、いちばんの親友のような関係かもしれない。俺は他人から「面白い話」を聞くために誰かと会っている。俺がおしゃべりと同時に、誰からも聞き上手と言ってもらえるのは好奇心に担保された技術だったりする。その人が見ている世界を知りたい。それを構築する背景を知りたい。その人が面白いと思っていない部分をほじくりたくてしょうがない。はらわたを聞かせてほしい。

当然、与えてもらうだけでは関係は成立しなくて、向こうも俺の話を聞きたいと思ってくれているから、必要に応じて喋るけれど、あまりそれは自分にとって重要なことではない。自身の内面に関する自分語りよりも、自分の見解を見せていることが多いように思う。親近感を演出する技法として、どうでもいいことに関してはベラベラ喋ったりするのだが。

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「定期的に会いたくなる」の正体はなんだろうか。お互いにとって心地が良い関係であることは大前提として、それは「アップデートがある」という言葉が近いニュアンスのように思える。会っていなかった間にその人が経験したり、思ったことが蓄積されていて、まるで別人のようになっている時にゾクゾクすることが多い。自分も変わらなきゃという強迫観念ではなく、自分にもまだまだ満たしていける空白があるのでは?と思える期待感のような。

アップデートは必ずしも成長でなくても良い。たとえその人がそのままの姿であっても、自分にとって未知の彼(彼女)が出会った世界がそこに充満していればそれで楽しくて満足だ。だから、他人と会って喋るということは、その人と会ってないあいだの出来事に邂逅するということなんじゃないだろうか。少なくとも自分にとってはそうであるように思う。同時に、相手に聞かれることによって自分が経験してきたことを再発見する場でもある。


そして重要なことは、「タイミング」はすべてを支配しているということ。誰かが語ってくれた何かを宝石にするのも、ゴミクズにしてしまうのも自分にかかっている。その時々で自分が気になっていることの琴線に触れた時、言葉は意味を持つ。逆に言えば、そうでない時には貴重な言葉を自分が拾えていない。書籍は読むタイミングで違う顔を見せるように、誰かと話すとはそういう側面を持つ。未知を希求する好奇心とは、既存の自分の価値観に依存しているという矛盾を意識しておかなくてはいけない。だからこそ「会って意味がある人」なんて本当は存在してなくて、自分のモードの違いに過ぎないのかもしれないんじゃないだろうか。


今回は「会っていない間の余白」について考えてみたけど、次は別の側面でも書いてみようと思う。と、いま気づいたけど、最近の俺、甘えられる人に会うたびに書籍の相談ばっかしてたわ。その節はすいませんでした。本出たら美味いモン奢らせてください。